釜石応援団鹿児島支部のmazdaです。
これは完全に私感かもしれません。
この1年間。
「がんばれ」という言葉より、
「がんばれと言ってはいけない」という言葉の方を、
多く耳にしました。
安易に「言ってはいけない」のは、
「言われなくてもがんばっているよ。」
「これいじょうどうがんばればいいの?」
という応援される側の感情が原因のひとつだと思います。
ですが、敢えて、今回、応援します。
「がんばれがんばれ」と大きい声で言います。
脱線します。
※少し長くなるので飛ばして下に行って頂いても頂いてもかまいません。
昔。小学生の頃。
給食の時間にトマトが食べられなくて先生に許してもらえず、
昼休みにみんなが外に遊びに行っても机のトマトの前で座って泣いたまま。
掃除で他の机が片付けられても机のトマトの前で座って泣いたまま。
結局それは放課後まで続き、放課後に説教されて帰らされる、
という場面を何度も何度も見ました。
大人になって、その場面を思い出すたびに考えます。
そもそも、あれはなんの意味があったのか、何を教えたかったのか。
食べ物をだいじにする?
他の食べ物はだいじに食べていたと思います。
食べられないひとがいるのだから?
決してぜいたくはしていませんでした。
食べ物を簡単に嫌うと人も簡単に嫌う?
むしろなんでも食べている人が人を簡単に嫌ったりしていました。
先生はどう考えていたのかはわかりません。
でも、私は何の意味も無かったと思います。
感情的にも、あまり好きな場面ではありません。
百歩ゆずって、意味があったとすれば、
そこで人間関係をはぐくめればよかったかな、と思います。
だとすると、唯一の正解は、トマトが食べられずにいる仲間を
置いて外に遊びに行った私達も、一緒に怒られるべきでした。
周りを囲んで、「がんばれ」「がんばれ」というべきでした。
それでもだめならば、食べれる人をさがすべきでした。
だれも食べられないならば、みんなで先生に許してあげるように言うなり、
隣のクラスに食べれる人を探しに行くなりするべきでした。
みんなで、いっしょに、解決するべきでした。
ほおって出て行ったなら、私達も怒られるべきでした。
閑話休題。戻ります。
私たちは、「がんばれがんばれ」と言います。
ただ、私たちは、被災地で困っている人がいたら、
かならず全員で全力で助けます。
私たちで助けられなければ、
助けられる人を探します。
万能ではありませんが、私たちは、いっしょに戦います。
私たちの「応援」することとは、
いっしょに、戦うことです。
これから、いっしょに戦う仲間がひとりでも多くなっていけば、と思っています。
そして、少しずつ、少しずつでいいので、この輪が大きくなっていってくれれば、と思っています。
そして、
「言われなくてもがんばっているよ。」
「これいじょうどうがんばればいいの?」
という人がいたら、
『おれらにまかせろ』
といえるぐらい、太くて大きな輪ができればと思っています。